みなさんこんにちは!
第2回のインタビューは、Saaya(須賀紗彩/すがさあや)さんにお話を伺いました。彼女がどのようにサンバと出会い、表現者としての道を歩んでいったのか、そしてどこに向かって行こうとしているのか紐解いていきます。
サンバに出会う前
ダンサーとして表現者として素晴らしい存在感を持つ、Saayaさんは小さいころからずっとダンスをしてきたのでしょうか。彼女は5歳からクラシックバレエを始め、中学生まで続けていましたが、高校受験を機に一度バレエを辞めることになります。
もともと音楽の専攻がある高校を目指していたものの、中学時代は不登校の時期が長かったため、希望する学校への進学は難しいと言われました。他に惹かれる学校もなく、高校進学自体を迷い始めていたところ、両親と担任の先生の勧めで自由の森学園を見学。面談で美術の先生に「なんで学校に行っていないの?」と聞かれ、当時なぜ行きたくないのか上手く言葉にできず、「うーん…」と詰まらせていると、「わかんねーよなー」と深く追及されることもなく、むしろその自然に受け入れている対応に驚き、こんな先生のいる学校なら通いたい!と一気に惹かれ、音楽の授業が3年間あること、音楽や踊りの選択授業が豊富なことも知り、受験を決めました。
そして、バレエを再開しようとしたものの、1年間のブランクで体が思うように動かず、やる気も落ちてきてしまっていたこともありそのままバレエから離れることになったそうです。
高校でのサンバとの出会い
自由の森学園の入学式では、音楽や寸劇などのパフォーマンスで新入生を歓迎するのが定番になっており、Saayaさんの入学した年は「選択授業 サンバ」の生徒たちがバツカーダ(サンバの打楽器のみの演奏)を披露。ダンサーは登場しなかったものの、「高校にサンバがある」という事実に驚いたそうです。
ただ、その時すぐに惹かれたのではなく、実はサンバを始めたのは高校3年生になってから。高校1年生のとき、学園祭でパシスタ(サンバ衣装のダンサー)が踊っているのを見た時に祖母から「あれやってみれば?」と何気なく聞かれましたが、その頃は「いや、あの衣装は着れない」と即答し、特に興味を持たなかったといいます。
自由の森での高校生活は想像以上に楽しく充実していたものの、徐々に睡眠のコントロールができなくなり、その事がメンタルにも影響し、高校2年生になる頃にはほとんど登校できない状態に陥りました。
そんな中、サンバを踊ったら?と言っていた祖母が亡くなり、自分を心配していた祖母の思いを考えると「このままじゃいけない」と感じ、高校3年生から突如として学校に通えるようになったそうです。それまで関わることのなかった学校行事の実行委員会や演劇に参加したり、校内ライブにも出演するなど、突然さまざまな活動にのめり込んだ理由を伺うと、「多分元々は活動的だったんだと思うんですよね、なんだけど、くすぶっていた。なんか急にそうですね。動き出した感じ、起きたのかな?やっと目覚めたという感じです。」とSaayaさん。
サンバを始めるにあたって、選択授業サンバの指導者である重山先生は、「学校に来ていなかった生徒が突然『踊りたい』と言い出した」とびっくりされていたそうですが、それでも熱心なSaayaさんにサンバダンス講師である大道寺美穂子さんを紹介し、レッスンに通い始め、本格的にサンバの世界に足を踏み入れることになりました。
とうとう目覚めたSaayaさんのその後がとても気になりますね。
音楽中心の生活がいつの間にかサンバ、そしてハイーニャへの道へ
高校卒業後は進学はせず、音楽活動を中心に活動を続けていたそうです。さぁやさんの母が声楽家だったこともあり、歌うことには漠然とした憧れがあったため、高校の同級生と音楽ユニットを組み、ジャズやシャンソン、テクノなどが混ざった独自のスタイルで活動を続けていました。
歌の活動とサンバを並行して続けていく中で、その二つの比率が徐々にサンバに傾いていき、気がつけばほとんどがサンバに関わる日々になっていました。
そしてハイーニャ・ダ・バテリア(バテリア=打楽器隊 の女王・トップダンサー)になったのは2014年。
きっかけは自由の森学園のサンバチームが浅草サンバカーニバルでS1リーグに昇格し、そのタイミングでハイーニャを設けることになり、初めてコンテストが開催。その結果、さあやさんがとうとう初代ハイーニャに選ばれました。
自由の森学園のS1昇格というタイミングでブラジルへ行く決断をします。本場で何を感じ、どのような経験を積んできたのか。
次回は、Saayaさんが初めてのブラジル滞在でどのようにサンバと向き合い、現地での挑戦をどのように乗り越えたのかを深掘りしていきます。お楽しみに!
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